ゆんたく・徒然 奥の深い沖縄。その沖縄をもっと知りたいヤマトの人々、
古里沖縄をあまり知らないと”ウチアタイ”するウチナーンチュ。
そんな方のお役に立てたらと願う、「青春」を謳うナイチャー、
NPOの一員です。

泊港 後編

今月も引続き泊港が舞台です。ウチナーンチュの方は歌劇「泊阿嘉」(トゥマイアーカー)をご存知ですね。シェークスピアの「ロミオとジュリエット」はお読みになりましたか。
ミュージカル映画「ウエストサイド物語」は大勢の方がご覧になられた事でしょう。
泊高橋を舞台にする「泊阿嘉」は我如古弥栄の作品ですが原典は「ロミオとジュリエット」です。「ウエストサイド物語」も原典は同じですから、泊とウエストサイドは兄弟なのです。沖縄芝居にはこのような例が多くあるようですよ。
三月三日(旧暦)浜下り(ハマウリ)の日、久茂地・阿嘉家の嫡子樽金(タルガニ)と伊佐殿内(ドゥンチ)の娘思鶴(ウミチル)はアカチラ浜(若狭)で運命的出会いをします。
一目惚れの樽金は泊高橋に通い詰めて、乳母(阿母)の助けもあり99日目に恋は成就します。しかし両家は敵対関係にあり、樽金の父は息子に伊平屋勤務を命じ二人の仲を裂きます。恋に身をこがす思鶴には縁談が持ち込まれますが、やがて病に伏し、恋慕の思いを手紙にしたため乳母に託し一人不憫にも黄泉に旅立ってしまいます。勤務を終え伊平屋から帰った樽金を待っていたのは思鶴の悲しい死と手紙だけでした。絶望の淵をさまよい、思鶴の墓前で後を追う樽金・・・。
沖縄女性の心をぐいっと掴んだ若い男女の悲恋物語はおおよそこんな筋なのですが、芝居とはいえ、男女が手を握り合う姿は色彩鮮やかな衣装と共に目もくらむ光景だったと「名作の舞台」では記しています。初演は1910年(明治43年)沖縄座といわれていますが、さてどんな時代だったのでしょうか。
日清、日露戦争(1904〜5年:明治37〜38年)に勝って列強の仲間入りをした日本は1910(M43)年には韓国を併合し、次第に大陸に覇権を求めていきます。一方で大正デモクラシーと呼ばれる民主主義を要求する思想や運動も起こります。与謝野晶子の活躍が女性の社会進出を盛り上げ、「原始、女性は太陽であった・・・」と平塚雷鳥主宰の青踏社が機関紙を発表します(1911年)。
沖縄では500年続いた琉球王府が廃琉置県で消滅したが、明治政府は旧慣温存政策をとっていました。しかし1895(M28)年日清戦争に勝利した後は「言語、風俗をして本州と同一ならしむる」という同化政策に転向し、沖縄的風俗、文化、習慣を排除するようになりました。以後は同化政策と沖縄のアイデンティティー(文化と民族の維持)との攻防が今次大戦まで続きます。沖縄芝居見物、浜下り、モーアシビなど女性に厳しい取締りに民衆は反駁します。若い女性達は大阪や関東に出稼ぎに行く者あり、あるいは沖縄でアダン葉での帽子作りに従事したりして外貨獲得に活躍します。労働に疲れた彼女達がたまの観劇に喜びを見出したのも頷けます。青木誠氏は「明治・大正の芝居小屋こそ現代沖縄芸能の生誕の地であり、学校であり工場である」と述べていますが「泊阿嘉」はこうした時代の中で生まれ、組踊りにない面白さで若い女性を魅了していったのでしょう。
第一次世界大戦(1914〜18年:大正3〜7年)により急騰した黒糖価格の影響で、軽便鉄道は走り、自動車も持ち込まれ大正時代の沖縄は未曾有の好景気に沸きますが1920(大8)年をピークに黒糖価格は暴落し、本土の「やらずぼったくり」政策も遠因と言われ、沖縄経済と民衆は昭和の「ソテツ地獄」、「海外移民」という苦しい時代に落ち込んでしまいます。
戦後甦った沖縄文化、芸能の中にあって「泊阿嘉」はお年寄りには古き良き時代を偲ぶ、よすがとして、若い人にとっては連れて行って貰ったおばあちゃんを懐かしく思い出すそんな位置づけの芝居としても喜ばれ、現在も頻繁に上演されているのではと想像します。
OTV「郷土劇場」で2002年放映された、古謝万季さん(思鶴)山入端直美さん(乳母)知名剛史さん(樽金)というキャスティング作品はとても美しく出来ていました。「UCHINA―芝居」で活躍中の小嶺和佳子さんの演ずる思鶴は是非見たいと思います。「伊江島ハンドー小」(バックナンバー「伊江島情話の里」参照)も演じた方です。
泊高橋から港を見ていると「琉球貿易図屏風」に書かれた那覇港の風景が重なってきます。観音堂や崇元寺も見えます。港に浮かぶ進貢船、大和船、マーラン船、小船が賑わっています。製塩が行われている浜の近くに見えるアーチ型の石橋が泊高橋なのでしょうか。多くの歌人、文人がその美しさを詠んだ観月の名所の面影や、浮島が連なった港の風景はもうありません。経済発展や利便の為に開発は必要ですが、美しさを如何に保存し残すかも開発にあわせ議論すべきでしょう。観光立県沖縄にはとりわけ大切ではないでしょうか。

ウチナー口(沖縄方言)など解説 ※文中敬称を省略しました。お詫び申し上げます。

ウエストサイド物語・・ 70mm超ワイド画面一杯に、指パッチンの音と伴に伸びるジョージ・チャキリスの長い脚、裕次郎も真っ青でした。ナタリー・ウッドも良かったので「名画座」で「草原の輝き」を見直す思い出。1961年度作品、2年近いロングラン。
我如古弥栄・・ 「ガネコ」が読めたヤマトンチュは沖縄文化初級卒業!1881〜1943。役者で「乳母」役は当たり役と評判だったという。
三月三日・・ ご存知「浜下り」の日です。組踊り「手水の縁」も浜下りから始まります。女性がこの日浜に出て海水を蹴って邪気を祓うという因習がある。今は楽しいハイキング。
嫡子・・ 「僕はチャクシ」と言って良いのか、まずいのか難しいのが沖縄社会。トートーメー(位牌:家督)を背負っていますので相手の女性には悩ましい存在なのです。
99・・ この数字の意味するところは?「a lot of 」(西海公園の九十九島)なのか、重陽(縁起のよい陽の9を重ねた)ならば「大願成就」にぴったりだし。
名作の舞台・・ 2001年「ナビーの恋」で始まった琉球新報の水曜特集です。「泊阿嘉」は#12で、「トゥマイアーカー」「タルガニ」「ウミチル」の読み方はここから。2002年10月#50「人類館」で終わったが私の沖縄病DNAの一端を担う。
青木誠・・ 1960年代渡辺貞夫、山下洋輔、日野皓正らと活動したジャズ全盛期のプロモーターで、音楽評論家。
外貨・・ 島国沖縄では今も使われる。例えばヤマトに県産物を売って儲ける時に「外貨をかせぐ」という表現をします。万国津梁の琉球時代が生んだジンブン(知恵)ですね。
アダン葉・・ 海岸に自生、防風林の役目をする。漂白と編み方で特許がとれ、明治末期から大正まで特需となった。最盛期は3万人が従事したがその殆どが女性、沖縄版女工哀史も生まれた。紙撚帽によって衰退した(以上、三木健)
軽便鉄道・・ 沖縄県営、愛称「ケービン」大正3(1914)年那覇〜与那原、大正11(1922)年那覇〜嘉手納、同12(1923)年那覇〜糸満がそれぞれ開通した。西と東の連絡が最初だった事に注目ください。
郷土劇場・・ Cさんが教えてくれました。ここをチエックしてチャンネルを合すと沖縄芸能通になれますよ!
琉球貿易図屏風・・ 19世紀前半時代、首里から那覇港を俯瞰した歴史的に大変貴重な屏風絵。
マーラン船・・

「馬艦船」と書きます。ジャンク型の帆船で泊港、那覇港、与那原港(唯一東の港)を基点に県下諸島や鹿児島、大阪へも巡航した。


プロフィール

楠 通志
1942年1月生まれ(みずがめ座 O型)。福山市出身、さいたま市在住。
1976年頃初めて沖縄入り。以来本島以外に、宮古島、多良間島、石垣島、与那国島、竹富島、波照間島、伊江島を訪問。自然風景写真を撮っている。
今年の目標は「原風景」に拘った作品作りで必然的に離島へと足をのばす事。伊是名、座間味、久高の各島。本島では山原や東海岸としたい。


シーブン(おまけ)

  1. ヒョウに似た、3mも跳び上がり山猫の倍くらいの大きさの伝説の怪獣「ヤマピカリャー」をご存知ですか?ここ4年で目撃情報47件とか。西表島西部地区からの便りだそうです。
  2. 糸が絡み衰弱した「クロツラヘラサギ」救出ニュースは全国に流れました。凄いことです。順調に回復し、野生復帰の準備として沖縄こどもの国に移送されました。
  3. 「ムーチー」を初めて食べました。手作り中とトートーメーにおそなえした写真ともども、西原町のCさんが送って下さいました。月桃の香、紅芋と黒糖の味は「ザッツ オキナワ」でした。謝々!
  4. 23日福州園で夜の園遊会が開かれ獅子舞などの演舞や二胡の演奏などがあり、ライトアップした治亭は池面に美しく浮かび上がりとても幻想的だったと参加したKさんからお便りがありました。

参考文献等

「沖縄県の百年」金城正篤、上原兼善、秋山勝、仲地哲夫、大城将保 著 山川出版社刊
「琉球・沖縄と海上の道」 豊見山和行著 高良倉吉編  吉川弘文館 刊
「沖縄うたの旅」  青木誠著    ボーダーインク 刊
「名作の舞台」  琉球新報社 #12(2001・12・26)
 http://www.culture-archive.city.naha.okinawa.jp/html/b_contents/10002000.html
 http://www.otv.co.jp/kyougeki/02_1204.html